嫌われる勇気と自由の代償
会社のセミナーに参加してきた。
その時にアドラーの言葉みたいなのが、引用されてたんだけど、、、
自由になるという事は嫌われるという事だ。
みたいな事言ってた。
確かにこれはよく分かる。
自由に物事をやるという事は、同調圧力の強い暗黙のルールのある日本では、和を乱すという危険を冒すことになる。
己のやりたい事を主張する訳だから。
そして全員の一致はありえないから。
嫌われる。
嫌われるのが、嫌な人は自分の意見を言えなくなるし、態度も周りが求めるものを演じてしまう。
そして演じているうちに、自分がなんだか分からなくってくる。
そして均質的になっていき我を失う。
そして自由に生きてる人を見つけた時に、彼はなぜあんなに自由に生きてるのかと羨む。
けど自分は出来ない。そんな自分がどうしようもなく嫌だから、自由になっている人を非難し、自分の世界から消そうとする。
そして消えた後に安心し、またいつもの周りに合わせる自分に戻りもどかしさを感じながら生きる。
こんな話は、海外でも例外でなく、もちろん日本は特にひどいけど。ひどさの程度の問題であり、多くの人間は自由になる事を自ら拒みそして、命令を受動的に受け取る側になっていく。
なぜなら人の言う事や、社会から選択肢を与えられて選ぶ方が、精神的に楽だし、どんどん受動型人間が生まれていく。
昔黒人奴隷解放運動が、あった時に多くの人は反対したらしい。奴隷側がですよ。
彼らは、非常にその暮らしを気に入っていた人たちであり、また解放された後にどうやっていって生きていったら良いかわからなかった人たちである。
もちろん、彼らの中に良いご主人に恵まれ、その生活で満足していた人達もいたはずだ。
それが、自由の対極であるが、ある種その受動側に幸せを感じる人もいる生き方でもある。
ただ私は人間はもっと自由になって良いと思う。教育の過程でそのような方が、楽だしそうあるべきみたいなのを植え付けられて、本来自由に表現できる人間が、出来なくなってしまったのではないかなと考えている。
東大の教授がネットニュースに記事書いてたけど。我々サラリーマンは、古代であれば奴隷階級よりも酷いらしい。と言うのも、当時ピラミッド作ってた人達も労働の対価としてパンやお酒を貰い働いていて、疲れたら行かない人とかもいたとか。
鉄の鎖をつけて、ムチで叩くみたいなイメージあるけどあれは嘘で、あんなのやったらみんな逃げちゃうから、もっとまともなシステムで運用してたみたい。
そう考えると、東京の満員電車とかでストレス溜めながら、どんなに体調が悪くても、台風でも出勤するとか、仕事を辞められなくてまたは責任感から自殺してしまうとか、なんかこの国は怖くなってるな。
労働ってそんな崇高なものだっけか。
本来日本人は、もっと自由に生きても良いと思うの。
ただ黒人奴隷解放運動と同様にご主人(企業)の待遇に満足している人達が、自由側と全力で戦う事になると思う。
もちろん本当は彼らにとっても自由がいいと思うんだけど、やっぱ多くの人にとって、変化は怖いし、自分で考えるって事を放棄して来た訳だから今更自由になったって嫌がる人は、多いだろうな。
ノンエリが、思うに今後の日本は見事に二極化が進みと思うし、現在進んでると思う。
自由を本気で目指し人間と、受動側で生きていく人間。
どちらが、良い悪いでもないけど色々ビジネスマンと合うが、そんなものを感じる。
受動側のデメリットは、どんどん貧しくなる可能性が高いし、消費のターゲットになってしまうかもって事。
そして、受動側にいってしまったら、周りももちろん受動側であるから、もう自由側に行くことはどんどん難しくなる。
今のところ日本は格差は少なく見えているけど、実際は思ってる以上にやばいとこまで来てる。
アメリカや韓国のように、目に見えた格差も近いかもしれない。
そして自由に生きると言うのは、経済的自立も必要になるが、1番大事なのは精神的な自由である。
これを是非獲得しておく事が、これからの時代必要だと感じる。
同じ状況でもないけど感じ方一つで状況全く変わってしまうから。
これから友人関係も大きく変わると思う。
仲の良い友人でさえも、なかなか友人の変化や成功を心から喜ぶのは、難しいよね。
むしろ距離が近ければ近いほど嫉妬とかしてしまいそう。
自由に表現してる人や、生きている人を見ると羨ましい一方、自分が不自由で変化を起こせないってことを目の前に突きつけられる訳だから、焦るし反動として他人を攻撃したくなるのかも。
そして自由になるという事はマイノリティ側に行くという訳だから、やっぱ嫌われやすいのかな。
それでもオレは自由に生きたいけどな。